可愛げがあるビジネスマンは成功する
昔は、「男は度胸、女は愛嬌」といわれたものですが、
男にも女にも、今の時代、「可愛げ」が必要かと思います。
可愛げがある人は、周りをほっとした気分にするので、
お付き合いもしたくなったり、何となく困っていると
手を差し伸べようかなって思ってしまいます。
例えばプロジェクトをしている人がいて、
「どうなの?うまく行ってる?」と聞いてみたときに、
「はい、大丈夫です。状況聞いていただいてありがとうございます。
何かあったらアドバイス聞きに行きますので是非お願いします!」
と可愛げたっぷりに答えてくれると、アドバイスしようって
思ってしまうものです。魚心あれば水心ですね。
たまに、自分が「認めている」人だけには、可愛げを見せるタイプの
人がいます。こういう人は、あるところまで行くのですが、
結局、人によって見せる可愛げの落差が大きすぎ、
敵を作る場合も多く、せっかくポテンシャルがあるのに残念なパターンです。
気をつけたいものです。
組織の中にいても、ピンで活動していたとしても、
この世の中はすべて人とのつながりで成り立っているもの。
引き立てや紹介も、可愛げのない奴にはしないものですよね。
自分に余裕がないと、可愛げもでないものなので、
自分の心を磨いて、可愛げのある大人で居続けたいものです。
ダメもと
【「ダメもと」とは、「ダメでもともと」の略で「無理を承知でやってみる」とか「やってみてできたらよい」というひそかな願望のこと】参照元:ダメもと(だめもと) - 日本語俗語辞書)
その昔、うちの母親が大同門でお出しする焼肉に
和食のプレゼンの美しさなどといった要素を取り入れたいと考え、
なんとかお力を貸していただけないかと直接交渉にいったそうです。
当時、焼肉レストランといっても、和食の専門家から見れば、たかが焼肉。
周りは、そんなえらい先生が会ってくれるはずがないと
否定的なムードだったとのことです。
そこを、さすが焼肉定食も生み出したうちの母親。
「ダメもと」で先生を訪問しにでかけていったそうです。
最初は、紹介もなかったため、会ってもくれなかったらしいですが、
ねばってねばって、ついになぜ焼肉に和食を取り入れたいか
という熱い想いを先生につげたところ、
先生が手伝ってくれることになったとか。
その後、私も若いときに先生とお会いさせていただいたことが
何回もあり、家族ぐるみでお付き合いさせていただくほどにもなりました。
素敵な先生でした。
現在の焼肉レストランで、和の食器を使ったり、
非常にきれいに肉をならべるというのも
大同門でのそのような歴史も一役買っているんじゃないかと思います。
それはさておいて、
周りがすべて「無理」「ダメ」と言っているときにも、
「ダメもとで」と考えてみたら、
案外突破口を見いだせるんじゃないかと思ってます。
結構やってみずに最初から、どうせ無理、どうせだめと
あきらめてしまっている人も多いと思います。
一見ダメだと思えても、あたって砕けることで、新しい活路が
見出せることは多いです。
「ダメもと」おすすめします。
*もちろん、相手がある場合は、自分の都合だけ押すのでは迷惑なだけで、
為せばなるものも為せばならなくなっちゃうので、お気を付け下さい。
良い提案とはお客さまが欲しいといったものを与えることではない
自宅の庭が地面むき出しで雑草ぼうぼうになっているのを仕事の忙しさにかまけて、ここ何年も手つかずにしてきました。まあ、ガーデニングの才もないこともあり、、
さすがにこのままではという状態になったので、思い切ってエクステリア&ガーデニング専門の業者さん2社から提案をもらうことにしました。
手を付けると決めると想いは膨らみます。小さい庭ではあるけど、イタリアのトスカーナにある田舎の庭調にしたいなぁと思い始めました。
こんなイメージです。
業者さんにも写真をいろいろと見せてやりたいことを説明して提案をお願いしました。
で、それぞれから提案があがってきました。
まず片方の業者さんからは、私がいった「欲しい」という要素をすべて盛り込んだご提案をいただきました。庭の中央にはオブジェ、壁にはイタリアの水栓、オーニング(日よけ)などなど。
そのご提案から一週間後にもう一方の業者さんが来られてご提案を見せていただいたら、
「えっ?」
という感じ。
ザ・シンプルで、いまあるテラコッタ色のタイルをいかして、あとは芝生とプラントですっきりと見せるという提案でした。
こっちの要望は聞いていたのかといささかむっとしながら
「芝生はこれまで何回もやってみましたが大きな木があり影になるので無理だとお伝えしましたよね」と突っ込むと
「それはお伺いしましたが、実は芝生がはえなかったのは日陰になっていたというよりも、このように木が育っていると木の根っこが地面の下にはびこっているために、芝生が育たなかったのです。ですので、ここの土をさわらなければ何を植えても育ちません。砂を大量にいれることで、芝生が育つ環境をまず作ってやります。ゴルフ場も同じことなんです。」
と説明いただきました。
さらに、
「いろいろとご要望はお伺いしたのですが、玄関の部分のデザインや家との調和を考えると、あまりやりすぎると合わないと思います。イタリア的要素をテラコッタの壺等でうまく見せることで、バランスとれた空間になると思いました。また、多くの植物を植えても、結局1年後のメンテを考えるとその時はいいのですが、1年後になくなってしまっている可能性が大きいと思います。まずはこの案をたたき台にして、徐々にご一緒に作っていければと思いまして。」
きちんとした理由を聞いて、よくよく考えてみると確かにそうだなと思い始めてしまいました。その後、いろいろとQ&Aを繰り返して、ある程度の合意ができたので、改めて見積もりを頼むことにしました。
さて、この2つの提案で、どちらにより心が動いたか。
実際は、後者でした。
お客様が自分の本当に欲しいものをわかっていない場合もあるわけで、専門家としては、そのお客様が潜在的に必要で欲しいものを見つけ出して提案する営業をしてこそ、専門家がプロである所以であり、また結局顧客満足につながるのではないかと思った次第です。
もちろん、そのような提案をしても、お客様にわかってもらえない場合も多々あるわけで、結局自分の欲しいといったものをすべて提供するといっている業者を選択することもあるため、リスクはあるのですが、顧客の立場に立って考えるプロというのは、そのようなリスクも負うべきであろうと思いました。
良い提案とは、必ずしもお客様が欲しいといったものを全て与えることではなく、お客様が自分で気が付いていないような隠れたニーズやウォンツを見つけ出して提案することかと。
User(ユーザー)には注意しよう ~Userという英語のもう一つの意味
User(ユーザー)という単語は、日本語でも大変馴染みのある言葉です。インターネットサイトのユーザーとか、アプリのユーザーというように、「利用者」ということを意味します。
英語では、もう一つ意味があります。
”She is a user."(彼女はユーザーだ)というように使いますが、この場合、知り合いや友達を自分の利益のために利用する人という意味合いとなります。
そういった人たちは、結構多く実世界にいます。彼らは、こちらの境遇が悪くなるとさーっと逃げていってしまいます。自分の利益にならないと思うと、見切りが早いのです。
彼らに利用されてしまう人は、人からよく思われたいという気持ちが大きいのではないかと思います。人からよく思われたいと思うと、自分というものがなくなって相手に合わせてしまいがち。相手のニーズを満たしてあげていると思い込んでいるのですが、相手は感謝をしておらず、実はただ単に利用しているだけ。これどこかで断ち切らないと危険ですよね。
人からよく思われても、別にだからとて人生よくなるわけでもなし、大勢に影響なし、自分のために生きよって自分に言い聞かせることかと思います。(子供のころから親によく思われたいという承認欲求が非常に強かった私としては、これを学ぶのに大変時間がかかりました。)
Usedにならないように、気を付けましょう。
そのときレストランはどう対応すべきだったのだろう
先週の金曜日に、羽田空港で大韓航空の飛行機から出火する騒ぎがありました。その影響で多くの飛行機が欠航になりました。伊丹空港からの飛行機も含めてです。
実はその土曜日に、20年以上あっていない人を含めた同窓生とのランチが東京でありました。土曜日の朝に飛行機を予約していたのですが、もし欠航とでもなれば(そして新幹線も一杯であれば)行けなくなる。そしてレストランにも迷惑をかけるということで、金曜日の夕方にレストランに相談の電話をしました。ちなみに、ランチでも飲み物いれて10000円になるという超有名レストランが当日の場所で、主催の友達に電話すると、直接電話してほしいということだったので電話してみました。
レストランに電話をして、「すみません、明日〇〇の名前で予約が入っています。明日のランチですが、当日キャンセルすると厳しいですよね。どうしたらよいでしょうか。」といいました。
すると、「当日キャンセルは・・・」という返事だったので、「実は明日関西から行くんです。仕込みもあり、大変だと思うのですが、羽田空港の出火騒ぎで伊丹からのフライトが欠航してます。明日どうなるかが現段階ではっきりとしておらず、そちらに迷惑をかけてもとおもったのですが、念のため確認しようと。。朝一番でお返事しても良いでしょうか」と言葉を濁らせつつ聞いてみました。そうするとその男性の方が、「やはり当日キャンセルですと、困るので、本日中にキャンセルされる場合はお願いします。」という答えでした。
結局は、当日行って、食事は素晴らしかったのですが、それから考えてしまいました。
あのときレストランはどう答えるべきだったのか。
関西からわざわざこのランチのために行くといっているお客様。口調からも、ドタキャンはしたくないし、レストランの事情もわかっているが、そのために余計困っている。(ドタキャンしてよいとわかっているお客であれば、わざわざ電話してこない。)しかも、この予約は10名の予約なので、あと9名は必ずくる。
レストランの運営上は、ドタキャンは本当に響きます。そこはわかるのですが、この状況では、本当のファン作りを考えるのであれば、あるべき答えは、「できるだけ当日のキャンセルは避けていただければ当店としてもありがたいです。ただ、状況が状況です。お客様が最後まで確認されて、キャンセルということであればそれも致し方ありません。ただ、お客様または主催者の方から明日朝にご連絡いただけると当方としても助かります。」ではないかと。
もしこういう返答であったら、私は間違いなくこのレストランのファンになり、また今後もこのレストランを選んだのであろうと思う訳です。
この返答こそがホスピタリティの精神でないかと思います。
ただし、ドタキャンは本当にレストランを痛めます。予約は「行きますよっ」ていう約束事なんで、行かない場合はぜひ事前にご連絡をお願いします!
自分が正しい、正しくないなんて、実はどうでもいい
どうしても自分が正しいことを証明したがるというのが人間の常ではありますが、仕事において成果を出すには、実はどうでもよいことだと思います。
もちろん自分が正しいと信じているので、信念をもって仕事ができるという部分もあるし、自信にもつながっているわけなので、「自分が正しくないと思え」といっているわけではありません。あくまでも、自らの考え方も含め他の意見や考え方を客観的にみることで、他の見方が自分の考えていたことよりもその状況に適している場合に、自分が正しいというものの見方を捨てて、他の見方を選択できるかどうかが大切だという意味です。そうすることで成果がでやすくなるからです。
この世の中、はっきりいって、自分が正しい、正しくないで、動いているわけではありません。
「自分だけが正しい」と思っているタイプの人は、何かあるとすぐに不満を持ちます。上司が間違っている、会社が間違っている、自分が正しいのに周りはそれを理解しないからことが上手く行かないという不満と悲観の中で、前向きに進むことをやめて、次に自分が正しいことをわかってくれそうなところに移動していきますが、結局は同じことを繰り返します。
仕事をするものとして、成長するために是非もっておくべきスキルが、他人視点で物事を見れること。自分が正しい、正しくないはいったん横に置いて、いろいろな方向からものごとを見てある状況下での最善のアクションを判断し選択していく訓練を常にしておくことです。実は客観的なものの見方というのは、訓練していないとなかなか身に付きにくいものかと思います。
私も自分が正しいことを証明するためだけのアクションや発言にならないように、日々気を付けておりますが、まだまだ反省するときもしきり。さらに研鑽します!
コミュニティの一員であることの意識が今こそ必要--シチズンシップ教育
アメリカにいる息子の声が聞きたくて、この週末に「電話できる?」とメッセージしたら「ダイニング・ホール(学校の食堂)の掃除をしているから忙しい」と返事が帰ってきました。少し後でようやく電話がつながったので、内心なにか悪戯でもして罰として掃除させられてんじゃないのと思って、食堂の掃除について聞いたら、それぞれの寮が持ち回りで掃除をしていて今週は自分の寮の順番だったと説明してくれました。
だんなにこの話をしたところ、「コミュニティにおけるCitizenship(シチズンシップ)ということをしっかりと教えてるんだな」とのコメントだったので、興味をもってシチズンシップという言葉を調べてみました。(ちなみに、だんなはアメリカ人です)
シチズンシップとは、市民権、市民としての身分という意味です。欧米では、コミュニティを構成する一人ひとりに与えられた地位身分をもつものは、権利と責任も平等にあると考えており、シチズンとして、他人を尊重したり、個人の権利と責任、人種・文化の多様性の価値など、社会の中で円滑な人間関係を維持するために必要な能力を見つけるためのシチズンシップ教育を重要な教育として捉えています。アメリカでは、連邦政府からこの教育について補助金もでるようです。
自分たちが使う食堂を、誰かが掃除してくれるのではなく、自分たちの責任で清潔な場所にしておく。コミュニティを使う権利に伴う責任。これを実体験の中から教え込むというのは、とても素晴らしいことだと思いました。
ダイバーシティがさらに進む日本社会に生きる私たちにも、大変必要な教育ではないかと思います。